1919年3月21日、ハンガリー・ソビエト共和国が成立。

第一次大戦でオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後、王政を廃止してハンガリー共和国が成立。この日、ベラ・クンの率いるソビエト共和国が誕生した(第1次ハンガリー革命)。しかしこの革命は短命に終わり、ハンガリーは20年のトリアノン条約で領土の3分の2と住民の半数を失い、政体は王政にもどった。

この革命を語るとき、ジェルジ・ルカーチ(1885〜1971)の名を忘れることはできない。ジェルジ・ルカーチは,オーストリア=ハンガリー帝国の爛熟期である19世紀末に、ブダペストの裕福な銀行家の家に生まれた。ドイツに留学、ウェーバーの最も有望な弟子となったが、第一次世界大戦の評価をめぐってドイツ知識人と決別、ハンガリーに帰国した。そして1918年ハンガリー共産党に入党、1919年、ハンガリー・ソヴィエト共和国の教育人民委員に就任した。

このハンガリー革命政権は短命に終わり、ルカーチもウィーンに亡命を余儀なくされる。亡命中、代表作の『歴史と階級意識』(1923年)を書き上げる。この著作は、後に「西欧マルクス主義」という思想潮流の原点に位置づけられた。後年、ルカーチはこの著作についてこのように語っている。

 「ハンガリア革命の経験は、すべてサンディカリズム理論の脆さ(革命における党の役割)をひじょうにはっきりと教えてくれたが、極左的主観主義はなお久しく私のうちに生き続けていた。……私の著書『歴史と階級意識』は、この過渡期をひじょうにはっきり示している。マルクスによってヘーゲルを克服し、止揚するという試みを、かなり意識的におこなってきたにもかかわらず、弁証法における決定的な諸問題は、まだ観念論的に解かれていた(自然弁証法、模写説など)。私はいぜんとしてルクセンブルグの蓄積論を固執していて、それが極左的・主観主義的行動主義とチグハグにまざり合っていたのである」(岩波講座『現代思想』別巻、『歴史と階級意識』未来社訳者あとがきより重引)

ルカーチが再び政治活動に復帰するのは、1956年10月、ハンガリー革命においてである。ナジ・イムレを首班とする政権に請われてルカーチは文相に就任した。ソ連・ワルシャワ条約機構軍の戦車部隊が首都ブタペストを制圧し、ナジ政権は崩壊。ハンガリー革命の衝撃は、共産主義運動に新左翼運動の潮流を生み出すことになる。